2008年01月03日

手塚治虫の業績は素晴らしいです。

日本における本格的ストーリー漫画、そして今日に於ける二次元産業の開祖と言われる。しばしば舞台劇的だった漫画を映画的に変革したとも評されるが、日本でも第二次世界大戦前から赤本漫画の世界で、映画的にコマ割りされた漫画は存在していることが指摘されており、何もかも手塚治虫が発案したわけではない。戦時中の1938年に内務省から「児童読物ニ関スル指示要項」が出され、10年近く表現規制がなされていたため、戦後の少年たちにとって手塚治虫『新宝島』の登場は衝撃的だったのである。そして、この衝撃は藤子不二雄らトキワ荘グループに共有され、彼らが語ったり自伝に書かれたりすることで、1970年代から漫画ファンの間に流布され、神話化していったという。

中央での大手出版社の月刊少年誌に掲載される漫画は当時は4ページから6ページ程度だったのに対して、関西の赤本漫画界を出発点にした手塚は100ページ以上のストーリー漫画を描き下ろしてヒットを飛ばした。2年間で12本の赤本漫画を描き下ろした中央の漫画界に進出。これまでのただ面白おかしいだけのマンガではなく、複雑な内面を持ったキャラクターによる悲劇もありうるドラマチックなストーリーを漫画に導入し、漫画を物語を語る手段として、戦後の現代的な漫画の原点を築き上げた人物である。第一人者として亡くなって20年近くなる現在でも生前の功績から「マンガの神様」の異名で崇められている(詳細は後述)。

1954年には専門誌『漫画研究』にアシスタントの求人広告を出し、プロダクション形式をとって大量のアシスタントを雇って作業を分担させ、ひと月に100ページを超える執筆を可能にした。手塚以前にアシスタントを使った漫画家は皆無ではないが、このような大々的なプロダクション形式をとったのは、寺田ヒロオや藤子・F・不二雄によれば、日本では手塚が最初である。この手法が用いられたことにより、週刊少年サンデーのような週刊漫画雑誌の刊行が可能になった。この週刊連載化は、多くの漫画家にとって過酷な生活を強いる原因ともなっており、下記に挙げる「アニメの功罪」と合わせて、手塚への批判の一つになっている。

アニメ制作プロダクションを立ち上げ、日本初のテレビ放送用の連続アニメーション番組『鉄腕アトム』を制作した。手塚の手法やビジネスモデルは、後の日本製アニメの制作に(良くも悪くも)大きな影響を与えた。

それまで政治風刺などの一コマ物が多かった日本漫画界に新地平を切り開き、「マンガの神様」と呼ばれる(一方、手塚本人はウォルト・ディズニーをそう呼んでいる)。
posted by abelu at 20:21| Comment(0) | TrackBack(0) | テレビアニメ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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